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そのまま、手を離せばいい。
腐食した世界に飲み込まれてその姿を永遠に失ってしまえばいい。
苦しみしかないと分かっているのに、
振り払えば楽になるその手に何故縋り付いたのだろう。
己の全てを差し出してまでも…
「…ぅ」
「…キ様!」
「う…ん…?」
「しっかりなさって下さい!」
「…う…私…?」
重い瞼を緩やかに上げる。何者かが、自分の半身を抱き上げてこちらを覗き込んでいる。
誰だ?見たこと無い…よな…
男は、ほっとしたように前髪をかき上げ肩の力を抜いた。
「どこか具合が悪いところはありますか?」
「いや…ないけど…」
問われるままに答える。やけに居心地が悪い。
なぜ自分は見知らぬ男に介抱されているのだろう?
自分…自分は…
「…………誰?」
「セキ様?」
「…セキ…?私の名はセキというのか…?」
男の目が僅かに眇められる。水滴が纏い細やかに煌めいて彼の髪を淡く彩る。
ああ、なんだ…?コイツ…男のくせにやたら綺麗な顔してるな…。
恐ろしいほどに整った顔立ちと透き通った素肌にしばし見とれるが、見れば見るほどその顔には覚えがない。
「…すまない…全然思い出せないんだ…お前は、誰なんだ…?」
「………記憶が」
きおく…私の記憶…?
…なぜ?なぜ私の頭の中はこんなにも真っ白なんだ?!
「な、なにも…思い出せないなんて…どうして…」
「思い出せないんですか?本当に?」
愕然とする私を冷静に見つめ、彼は尋ねる。
その声はどこか冷ややかで事務的にも聞こえて、私はどきりとした。
なんだろう…この、感じ…口に言い表せないけど、なにか妙な気分だ…。
「おそらく先刻の衝撃の影響でしょう。でしたら、すぐに…」
言いながら彼女の頭上に手を翳しかけ、ふと口をつぐんだ。
彼女の記憶を回復させることは容易に出来る。
彼女の記憶が閉ざされた原因は分かっているのだから。
「………」
だが…こんな好機はおそらく二度は無いだろう。
記憶を回復した後、同じ失敗を再び彼女がするとは考えがたい。
僅かな思案の後で、彼は口元をほころばせた。
「くす…いやですね、恋人の顔まで忘れてしまわれたんですか?」
「こっ、恋人っ?」
「ええ、そうです」
あまりにころりと変わった口調に、面食らいながらセキは念を押して尋ねた。
「おまえが、私と恋仲にあったというのか?」
「はい♪」
「…本当に?」
「ええそれはもう、誰もが羨むほどのあつあつぶりで…それなのに忘れてしまわれたなんて…あんまりじゃないかと」
「あつあつ…おまえと私がか?」
物凄い違和感が心を占める。
「…なんです?妙に不満げですね」
「い、いや…そういう訳じゃないんだ…ただ、やっぱり思い出せなくて、実感湧かないというか…
すまないな」
気遣わしげに眉を顰めて彼を見上げる。
冷ややかな美貌と、しなやかな体躯。
髪は陽の光を弾いて、海の色に融合してしまうかのように淡く美しく輝いている。
眩しいものを見るように瞳を眇めて、自分を見つめて柔らかに微笑む彼は。
記憶を失っているとはいえなんとなく分かる、粗忽な性格であろう自分とつりあう様には、どう考えても思えない。
「いいんですよ、これから少しずつ一緒に思い出していけばよろしいんですから」
「…うん、そう、だな。…なあ、私は、記憶を失う直前まで、一体何をしていたんだ?」
「『淀み』の調整中に飲み込まれてしまわれたのです。御身は私が引き戻したものの…
意識を奪われそうになり、支界に融合される前にどうやらご自分で封印なさったのでしょう」
「あー…はあ…『淀み』とか何がなんだかさっぱりわからないんだけどさ…ま、無理に今理解しなくても記憶が戻ればいいわけだから、いいか。それで、どうしたら治るんだい?まさか治らないなんてことはないよな?」
「もちろん治せますよ」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、いますぐにその方法を教えてくれる?!」
「そう言われましても、さすがにいますぐにという訳には、いかなそうですが」
「時間が掛かる方法なのか?いいよ、どんな事でも元に戻るんだったら私は何でもするから!」
「クス…では、一緒にまいりましょう」
「は?どこへ?」
「ふふっ。俗に言うデート、というやつですね」
「デ、デートッ?なんでだっ?私は一刻も早く記憶を取り戻したいんだよ?そんな事してる暇なんて」
「思い出すには、以前行った事のある場所へ行けば記憶が辿るかと思います。ご一緒いたしますのでご安心下さいセキ様」
「それはそうだけどね…でもそれ普通デートとは言わないだろーが」
「男女二人、何処かへ行くとなればそれはデートですよ?さ、まいりましょう?セキ様?」
にっこりと微笑み、差し出された手。何か腑に落ちないまま、戸惑いがちに自らの手をのせると、
その柔らかな感触が、自分の肌に不思議なほどにしっくりと馴染む気がした。
知っている。自分は、この感触を、知っている。
何も分からず不安にさざめいていた気持ちが、凪いでゆく。
記憶を失う前の自分は、少なくとも彼を嫌ってはいなかったんだろうな…そんな気がした。
手を繋いだまま彼の半歩後ろを付いて歩きながら、先刻から不自然に感じている事を訊ねてみる。
「ところでさ、なんでお前は私に対して敬語なんだ?恋人同士だったと言うわりに変に他人行儀じゃないか」
すると彼は、くす、と嬉しげに微笑んだ。
「それは…私はあなた様の僕ですから」
「はっ?」
「だから、し・も・べですよ、我が主」
「しもべ…って、召使いってことだよ、な?まさか、記憶を失う前の私は…お前をこき使ってたりしたのか?」
「はい♪それはもう」
「そんなの…おかしいじゃないか!だって恋仲だったんだろう?それなのに上下関係があるなんて間違ってる!記憶があった頃の私がどう言ったかは知らんが、そんなのは今日で終わりだ!私なんかに、そんな価値はないんだからな!もうたった今からおまえと私は対等だから!もう主人とか僕とか関係ないから!」
一気にまくし立てるセキに圧倒される様子も無く、慣れた様子の涼しげな顔でさらりと言う。
「そういうわけにはまいりません。あなた様は水の門のお方。私は神に仕えそのお方を守護する水の精霊なのですから」
「精霊…?おまえが…?」
「はい。もうかれこれ八千年はこの世界で存在している事になります」
「………」
成る程、こいつの美貌の訳が分かった。
精霊はみな、容姿端麗だというからな…
ああ、そんなどうでもいいことは、よく覚えてるのか…私は…
自分とその周囲の人間に関する事柄だけがすっぽり抜け落ちているなんて。
例えば、こいつの名前とか…
「っそうだよ!名前!!まだあんたの名前を聞いてないじゃないか」
「私の名前ですか?」
「肝心の名前を知らないままデートなんてさ、順番がなにやら間違ってやしないか?」
「あ、デートだと認識して下さるのですね♪」
「いやそうじゃなくて…」
「私の名前、知りたいですか?」
「ちょっ、なんで、そんなに近付く」
「こうすれば、何か思い出されるかと思いまして」
「お、お前はいつもこんなに近くでモノを話すのか?」
「ええ、まあ。我が主に限ってですけど♪思い出すためには普段と同じようにしなければ…おや、どうされたんです?」
「…なんか、疲れるからもすこし離れてくれ」
「ええっ?!つまらないですね…」
「お前は…つまるつまらないで距離を決めるのか」
「だって、ドキドキされるでしょう?こうしていると」
ただの色ボケか?…私は本当にこいつと付き合ってたのか?
なんだか信憑性が薄れていくな…。
「ああ…どっと疲労感が…」
「おや、でしたらここで少し休まれて下さい。ちょっとお待ち下さい、何か飲み物を持ってまいりますから」
道脇の岩に腰掛ける。どこの景色も、見覚えが無い。
しかも真面目なのか不真面目なのか分からないあの従者。
これで疲れを感じずにいられようものか…
「セキ!セキじゃないか!どうしたんだこんなところで」
後ろから突然に声をかけられて振り向く。
「え、と。すまない、私、実は今、ちょっと記憶を失くしてて…」
なんか、変だな、こういう台詞。
相手によっては、冗談を言ってるようにしか聞こえないんじゃないか?
だけどその男は、心底心配そうに首を傾げて私の顔を覗き込んだ。
「記憶をだって?俺だ、カディムだよ、覚えていないのか」
「ああ、うん…ごめんよ…思い出せるように頑張るから、
その…あんたが私とどういう間柄だったのか教えてくれないか?」
きりり、と男のこめかみが動く。
「ああ、俺は…」
「うん?」
「…俺…俺は、お前の…親友、だった」
「そう、親友だったんだ…」
「ああ、でも、俺が一方的にそう思っていただけだったのかもな…お前は俺のことなんて、それほど気にかけてはいなかったろうから…」
気付けば、男の頬がわずかに震えている。
その目に尋常ではない愛執がちらちらと瞬いた気がした。
なんだ…?もしかしてあまり仲のいい人物じゃなかったのかな…?
まずい…かもしれない…?
「ご、ごめん…思い、出せなくて…じゃあ、私は連れがいるからこれで」
思い出すまではとりあえず慎重にしておいた方がよさそうだ。
そう思い、その場を離れようとしたその時だった。
「待てよ」
「思い出さないか、セキ」
男が吐き出すように言いながら戸惑うセキの手を掴み上げる。
ぎりり、と両の手首を男の掌が食い込むように捕らえて離さない。
「…っ?!」
いきなりの事に驚く間もなく、自分の体が壁際に追い込まれていた。
カディムの吐息が、唇が、近付く。
振り払おうにも強い力で壁に体ごと押し取られて身動きができない。
「こうして、ずっと、お前と…お前にした事もみんな、思い出せよ、セキ!」
「やっ…い、いや…だっ!!やめ…」
「思い出してそれから…もう一度…俺と…っ」
更に迫る息遣いから、逃れられないと目を硬く閉ざした刹那に。
「…えっ…」
自分に覆いかぶさっていた男の体が消失した。
もがき逃れようと力をこめていた両手が急激に軽くなり、ぱたりと重力に従って下に下りる。
「……なっ…なに…?」
「身の程知らずが」
その、声。
背筋にひやりと冷水を垂らされたような、そんな気がした。
「ルー…?」
「もう大丈夫ですよ、セキ。すみません。怖い思いをさせてしまいました」
「…あんたが何かしたの?あの男は、どこへ消えたんだ…」
頭から忘れ去っていた事実。そうだ、こいつは精霊。
普通の人間には及びもつかない力を持った、水の精霊なのだ。
人では、ない。それゆえ、スナヒトを殺めたりするのをなんとも思わないのだ。
ズキリと、胸に疝痛がはしる。
なんだろう?この痛みは…
「クス…あんな男の事を気にかけるのですか?我が主は相変わらずお優しいことで」
「ルーウィン…答えてくれ」
「ああ、あの男は、文字通り消えて無くなったのですよ。消えたというよりは粉になったというべきか。ほら、セキ様の足元にある砂状のモノがなれの果てですよ」
はっとして、足元を見つめる。砂?こんな岩と石ばかりのこの町に?
ああ…この感じ、どこかで…感じたことがある。
間違いない。前にもこんな気持ちになった事があるんだ。
記憶を失う前、同じようにルーウィンが人ではないという事実を思い知らされた出来事があったに違いない。
そうして、私はそれを、ひどく悲しんだんだ…。
「さあ、行きましょう。長居は無用です。ここに居ても思い出すことなど何もないでしょうから」
私は、コイツの事を好きだったんだろうと、身に沁みて思う。
さらり、と足元の砂粒が風に溶ける。こみ上げて来るのは、嫌悪感と恐怖。そして、罪悪感。
「ごめん…ごめんよ…」
男が自分とどんな関係があったのかは分らない。
だが、私が記憶さえ失くさなければ、あの男は今もこの町で呼吸をして普段と同じ生活をしていたに違いないのだ。
私に出会ったせいでルーウィンに阻害物とみなされて、あんな変わり果てた姿には…ならなかったはずのに…
宿に戻ったセキは塞ぎこんでいる様に見えた。ルーウィンへの応対もひどくぎこちない。
「セキ様、これでもお飲みになってリラックスなさってはどうです?心が解れれば思い出すこともあるかもしれませんよ」
まあ、そうすぐに元に戻られてもおもしろくはないのですが。
「お酒?ああ、いいね。でも…今日はよしとくよ。なんだかそんな気分になれないんだ」
「そうですか。残念ですね…せっかく二人で飲み比べしようと思ってこんなに取り揃えてきたのに…」
「はは、尚更止めておくよ、飲み比べでおまえには勝てないからね」
「!…思い出されたのですか?」
「え、いや…なんとなく、そんな気がしただけだよ」
「そう…ですか」
「一刻も早く記憶を取り戻したい。明日に備えて今日は早いとこ寝ることにするよ」
「……ちっ」
「…今、舌打ちしたか?」
「…いいえ?我が主の前でそんな行儀の悪いことしませんよ」
「………」
「…………」
何処と無く不貞腐れているような気配を彼に感じて、セキは少し笑った。
先刻のような冷酷ぶりを見せたかと思えば、今は、まるで子供のように拗ねてみせている。
精霊は、気まぐれだというけれど、本当だな…。
スナヒトとはまったく違う。それを憂いていても仕方がないよな。
「ふっ…ごめんな、せっかく揃えてくれたのに」
「いいえ、いいんです」
「明日もし記憶が戻ったらお祝いに二人で飲もうね」
「ええ、そうですね、ぜひ」
私達は、にっこりと微笑み合った。
「記憶が戻ったら…何を祝うかなんて覚えていないくせに…」
「ん?何?」
「…なんでもありません。さあ、お疲れでしょう、こちらでゆっくりお休み下さい。このあたりには宿屋が少なくこんな部屋しかご用意できませんでしたが…明日には私の力も回復しているでしょうから戻ることができると思います」
天蓋から垂れる白幕を手で除けて、簡素な寝台の上に座り込む。
「ふう。なんか、割と疲れてる、かな」
体がベッドへと沈みこむような鈍い疲労感を感じて、セキは大きく溜息をついた。
「けっこう歩き回りましたからね。さ、足をお出し下さい、セキ様」
湯が満たされている大きな器から、ふわりとその蒸気が立ちのぼり、乾燥した室内に消えていく。
「えっ?ああ、いいよ、埃っぽくて汚いだろ、自分でやるから」
「いいえ!いけません!これは大事な僕の仕事、あなたにそれを奪う権利など」
「いいや!あるね!そんな事までしなくてもいいから!だいたい…人に足洗ってもらうなんて、そんなのなんだか気恥ずかしいじゃないか」
セキのその言葉に、キラリとルーウィンの目が輝きだした気がした。
「とんでもありません。私は、やりたくて、やってるんですから」
「またおまえはそんな事言って…」
憤慨するセキをよそに、ルーウィンは彼女の前に膝を付いて見上げる。
「セキ、足、出して?」
「う…?」
声音に幻惑されるように思わずおずおずと両足を差し出してしまう。
細く繊細な指先が、壊れものを扱うかのようにセキの足先に触れた。
呟きと共に水面からその手の内に満ちてくる
そうか、水の使い手だものな。
器の中の湯が、素足を纏うように、燭台の灯をうけて時折揺らめきながらセキの両足を包む。
「へえ、そんな事もできるんだねぇ」
妙に感心しつつ、セキはその様子を眺めた。
温かなその揺らぎがとても心地よくて、セキは思わず眼を閉じてほっと一息つく。
「あ、血が滲んでますね」
「ああ、昼間、石階段を登るときにちょっと擦ったんだろうね。たいしたことはないか、ら…」
水の揺らぎとは違った感触を、足先に感じてセキははたと眼をあけた。
その唇が、まずは擦り傷のある小指を柔らかく含んで、いたわるようにゆっくりと。
「な……っ?」
生暖かくてくにゃりとしたその感触。
「…っ、ちょっと、ルー…」
何をするんだ、と言いかけたセキは上目がちなその視線に心をすい取られる。
「恥ずかしい?セキ」
「……!!」
くすぐったいとか、そんな感覚よりも何か、物凄く切羽詰った感情がこみ上げて来る。
そんなセキを面白がるように、クス…と笑みを漏らしながら
踵から、親指のつま先までをゆっくりと舐め上げる舌先。
「う…あ…」
温かく湿った感触に、ゾクリと背筋に奔る感覚。耐えかねて顔が瞬時にして火照り出す。
「~~~~~っ!!っやーめーろーーーーーー!!」
ぱっしゃん!と弾ける様に水音を弾き飛ばしながら、
セキの足先がブン!!と唸りをあげて振り上げられ…そして振り下ろされた…。
「ああ…我が主はひどい御方です…一刻も早く主の傷を癒そうとする健気な下僕を足蹴にするなんて…」
「…おい。人聞きの悪いこと言うな。ちょっと鼻先をかすめただけじゃないか」
「いいえ、私が避けていなければ直撃でしたよ?まったく、我が主は本当に容赦の無い方だ…ああっ…でもそこがまた堪らなく良いのですが」
「そんなことばっかり言って…絶対私の反応見て面白がってるだろ…」
「はい♪」
「はぁ………もう、寝る…オヤスミ」
「はい。おやすみなさいませ、セキ様」
幾度か寝返りを打ってもセキはなかなか寝付けない。
今日一日、記憶を取り戻すために歩き回ったけれど、何も思い出すことができなかった。
不安がセキの心をじわりと締め上げる。このまま、思い出せなかったらどうしよう。
明日は思い出せるだろうか?
何か一つでもいい。思い出せたら安心できるのに。
自分の中に何も縋るものが無いのは非常に心元無かった。
「ね、なんでお前は寝ないんだ?」
セキが視線を向けた先。女とも見紛うように繊細な横顔が、壁際に灯された蝋燭にほの暗く照らされて物憂げな影を刻む。
声を投げかけると彼は、ふ、と微笑を作る。
「必要ありませんから。ここからこうしてセキ様の美しい寝顔を見ているのが至福の時で」
「寝ろ。いますぐ」
「ほら、この広さなら二人でも十分眠れるよ。おまえだって私を連れて歩いて疲れているだろう?」
上掛けを剥ぐり自分の隣に来いとばかりにポンポンとシーツを叩いてルーウィンをベッドへ招く。
普通男女逆のような気がしなくもないが…
「セキ様…いいのですか?」
「何が」
「同衾だなんて…まだ婚姻もしていないうら若き男女がなんて破廉恥な」
「おい…誰がうら若いってんだい…だいたい恋人同士だったんなら別に不自然な事じゃないだろう?」
「ですが…」
「うん?」
「疑ったりはなさらないのですか?」
「何をだい」
「私が、あなたに嘘をついているとは、思いもしないのでしょうか」
「嘘?どんな?」
「どんな…と言われましてもねぇ…あなたは記憶を失っていても迂闊な方なんですね」
「…それは、馬鹿にしてんのかい」
「とんでもない、とても純粋な方だ、と言いたかっただけです」
「…いいよ何とでもいっておくれ。私はルーウィンを信じてるんだ。もしあんたが私を騙してたとしても、それは信じた私の責任だろう?それにね、記憶が無くっても、感覚的に分かるんだ」
「………?」
「あんたが、私にとってすごく大事だったって。心底信じられる相手だって、頭では覚えて無くてもここがよく覚えてるんだよ」
胸元に手を添えて、セキはルーウィンを見上げる。その瞳には確たる信頼が宿っている。
ああ、あなたは、また…どうしてそんなにも…。
「そんなわけが、ないでしょう…」
「覚えてるんだよ、体が。だから…お願いだ、私のそばにいてくれないか…?不安で、眠れないんだ…」
「…セキ様…」
これは彼女の一時の気の迷い。
「…」
心を揺らした所で、記憶が戻れば何もかも砂塵のごとく消え去るだろう。
「我が主にお願いされるなんて…初めてですよ。私は、以前のあなたが記憶していた時の私ではないかも知れませんよ?」
「?…何言ってんだか…お前はお前だろう?」
膨れ上がったこの感情を、あなたは受け止めるとでも?
「責任はとれませんよ?」
「………っ?」
戸惑いの中でルーウィンの宵闇の深い蒼の瞳が瞬く。
「あなたから、誘ったんですからね……セキ…」
その身の内に全てを焼き尽くす激情を孕んで。
「ルー…」
光を望まぬかのような、膿んだ闇の気配。
それに気が付いて、セキは囁く。
「ね…?ルーウィン…何をそんなに怯えているんだい…?」
「怯えている?私がですか?」
「ああ…なんだかとても…何かを怖がっているみたいに感じるよ」
その言葉に、長い睫毛を震わせながら、彼は双眸を伏せる。
「私は…怯えてなど、いない」
重なり合うかに思えた唇は、僅かにかすめて静止する。
至近距離からセキを覗き込むその瞳は、やはり影が増したように怯えを孕み、
切ないほどに狂おしいその陰影をくっきりと色濃くさせる。
「…セキ…」
濃密で甘美な、とろりとした空気が二人の間に満ちる。
求め合うように絡み合う互いの視線。
胸の内で、芳しい香りを放って溢れ出す熱がある。
戸惑いを纏って指先がセキの首筋を捕える。
この指を絡めて、ほんの少し力を籠めればいい。
それですべてが終わるのだ。自分の使命も全うされ、惑わされる事ももうない。
もしも、背いたならば。
神は、世界の均衡を危機に晒した事を憂うだろう。
それとも、願望どおりだったと喜ぶだろうか。
「ルー…ウィン……」
「私は…思い出したんだ。他の事は何にも思い出せないけど…お前を好きだって事…それだけは思い出したんだ…」
私はずっと、あんたにこうしていて欲しいと願っていたのだろう…。
安らぎがセキの体を包みこみ、癒された意識は部屋の暗がりへと溶けて消えていった―――
「おはようございます。我が主」
「…………」
セキは、ぼんやりと寝起きの視線を上げる。にっこりとした、見慣れた顔。
「…っ!お前はまた!!」
「はい?」
「人の寝室に勝手に入るなといつも言ってるだろう!…と、あれ?」
「…ここ、どこだ…?!私は…」
「!…記憶が…」
「記憶?」
「……ああ……。いいえ…どうやら記憶が混乱されてるようですね…。
セキ様は、昨日お仕事の最中でお倒れになってここに運び込まれたのですよ。覚えていらっしゃらないですか?」
「え…そう、だったのか…悪かったね、迷惑かけてしまったみたいで…。うん…澱みに飲み込まれたのまでは覚えているんだけど…その後の記憶がまったくないんだ。ホントに、情けないな。いつまでもおまえの足引っ張ってばかりで。こんな半人前で役立たずじゃ…」
しょうがないよな…
こんな自分じゃ、おまえに見離されたとしても、しょうがない。
たとえ、それで命を落としたとしても…私は仕方が無いって思ってるんだよ…ルーウィン…
睫を伏せて膝の上で組んだ指に力を込める。
覚えている。淀みに取り込まれそうになったとき、彼は淀みに身を捕らわれてもがく私を静観していた。
冷ややかな目。口元には、怜悧な笑み。刹那に脳裏へと翻る規視感。
ああ…前にもこんな場面を私は…私のじゃない記憶で…。
あの時も、彼は…冷淡な、満足げな表情で私を、見ていたのだ…。
こうして助けてくれたのは、気まぐれに過ぎないのではないだろうか。
主の器なしに力を使えば精霊自身にかなりの負荷が及ぶのだから、未熟な水の門をお払い箱にしてしまう気があれば、きっと…。
「いいえ、あれは私の目測違いが招いた結果です。見抜けなかった私に責任があるのですよ」
「な、何いってんだい!全面的に私が悪いじゃないか!私にもライくらいの力があれば…お前に苦労させやしないのに」
「クス…その台詞、なにかダメ亭主みたいですねセキ様。なんと男らしいことで。もしや私を養いたいとか?」
「茶化すな!私は…私がふがいなくて…お前に申し訳なくて仕方がないんだ。なあ…私に何が出来る?ルーウィン、あんたのために私はどうしたらいい?」
「セキ様が、私に、ですか?ならば…」
―――ならば、すべてを私に差し出しなさい、セキ。
ルーウィンは伏し目がちにセキから目をそらす。
「火の方に力の使い方を教わったらよろしいのでは?」
「え?」
「きっと逐一丁寧に教えてくださりますよ、あなたがそうやって思い悩んでいるのが馬鹿らしく為るほどに」
「お前…何を怒っているんだ」
「怒ってなどおりません。そうなさった方がよろしいかと思い申しているだけです。いいえ、是非そうなさって下さい。セキ様の言うとおり、我が主の力不足でこれ以上このような事が起きるのはごめんですから」
「!…ルーウィン…」
明らかに不機嫌さを滲ませて背を向けたルーウィンにセキは戸惑う。
何が琴線に触れたのだろう。
精霊は気まぐれだと言うが、何の理由もなく感情を翻したりはしない。
自分の言葉が彼を不快にさせたに違いない。
それとも私があまりに軟弱でうじうじと愚痴を溢したから、自分の主の情けなさに苛立っているのだろうか。
―――苛立ち。
あのまま、彼女を淀みに置き去りにするつもりだった。
そのまま融合されてしまえばセキの存在を綺麗に消し去る事が出来た筈だった。すべてがそれで救われるのだ。一時的に支界との均衡が崩れるだろうが、破滅の要因を消滅させる功績に比べれば実に些細な乱れでしかない。
水の門は力を制御できずにその身を自ら滅した。それで済むはずだった。
だが、その筋書きを辿る事はできなかった。僅かの間の迷い。こちらを向いた縋るような瞳が閉ざされた瞬間、何かを感じるよりも先に、気がつけば唇は言を洩らし、両腕は淀みに取り込まれかけている彼女の体を引き寄せていた。
―――異なった終焉を望んでいるわけではない。
唯一、同じ痛みを分かち合える半身。
―――幾度胸を痛めてもその身を得られるはずなどないのだから…。
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