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3
キョーコ…
こいつ…
また、俺に、金縛りかけやがったな…
『ひどい人…私はあなたを思わない夜はなかったのよ?…あなたなんて、嫌い、大嫌いだわ…』
瞳のふちに涙が浮かぶ。
『私をこんなに苦しめるのは、あなただけなのよ?ショー…』
役名が台本に付いていないものだから、キョーコはご丁寧にも相手役を「ショー」と呼ぶ。
まるで本当にキョーコが尚に想いを明かすかのようなシチュエーションに、真似事だと理解しながらも尚はひどく動揺していた。
『でも…あなたの全てを私にくれるなら…赦してあげてもいい…』
『キス、してくれるでしょう?ショー…』
腕に力をこめる。
ぴくりとも動かないと思い込んでいた腕はあっさりと持ち上げることができた。
ぎこちなくも簡単に動いたことに、尚は愕然とする。
…違う…金縛りになんかなってやしねぇ……
俺は…こいつの眼と、その唇の動きに…魅入られているだけで…
キョーコの背に、指先が触れた。
眩暈を覚えながらも、そのまま引き寄せて頬を寄せる。
怯むかに思えたキョーコの目は、その先を待ち望むように潤んで揺れた。
キョーコの手が、尚の頬を愛しげに撫でる。
『愛してる…ショー…』
初めて感じる強烈な感情に煽られて、見えない糸を手繰りよせられる様に、唇の距離が狭まっていく…
「…ちょっ…ちょっとまちなさいキョーコ!!」
「!!モ、モー子さん…」
「!!」
キョーコは我に返り、止めにはいった奏江の姿を認める。
「はぁ…あんた…それ以上やると絶対後悔するわよ?」
ふう、と息つく奏江をぼんやりと見つめて、役柄の淵から自分を引き上げるまでしばし呆然としていたキョーコだったが、目の前で自分以上に放心状態にある尚に気がつくと、その口元ににやりと笑みを浮かべた。
「…う…うふ…うふふふふ…ほほほほほ…あーっはっはっは」
怨キョ総出の高笑いだった。渦巻く憎しみが喜びに変換され、放出される。
「演技、させてあげられたようね?ショータロー?」
「…………」
―――演技?今のがか?
俺を欲しがるあの表情が?
あの潤んだ眼差しが?
あれが演技だってのか?
油断はしていなかったはずなのに、キョーコの作り出した雰囲気に瞬時に引き込まれて、心を奪われた。
今も、その余韻が体を抜けない。
奪われかけて挑発された感情が、行き場を失ってキョーコへと向かう。
―――キョーコ…お前…
愕然とする尚を前に勝利をかみしめ悦に入るキョーコだったが、尚の腕が依然背中にまわされているのに気がついて眉根をよせた。
「ちょっと…いつまでやってんのよ。もう終わったんだからさっさと離しなさいよ」
「………キョーコ」
「っ!?」
尚の腕がぐっと力をこめて、キョーコの体を抱きすくめた。
抵抗する間も与えず、その細い体を身動きも取れないほど強く捕らえる。
キョーコには見せたことのない色気を纏った笑みを浮かべて、胸のなかに閉じ込めたキョーコを見下ろし、尚は嘲笑った。
「お前…マジでやってたろ?」
「…?!」
「今の、ラブシーン」
「な、ななななな、なに…!演技だっていってんでしょ…!!」
今更の至近距離にうろたえるキョーコに、尚はさらに顔を近付ける。
「アレ、演技だったんだ?」
即座にキョーコの表情が固くなるのを見て尚はほくそ笑んだ。
相変わらず、男慣れしていないキョーコ。尚の胸に妙な安心感が湧く。
―――俺は、あんな演技にだまされねえ…キョーコ…
「まだ終わってねーだろ?そこのツナギ2号に肝心なとこで邪魔されたじゃねえか…最後まで演じきんねえとここからは出れねーんだろ?ほら…やれよ…続きを…」
「……なっ!なにを…?!」
「演技、してやるからよ」
続きの演技…?
キョーコは尚の腕の中で震え上がった。
続きって…キスシーンを?!ありえない!!!
あまりのおぞましさに怨キョすらも出てはこなかった。
「じょ、冗談じゃないわ!!嫌がらせも大概にしなさいよ!この馬鹿!!素直に敗北を認めたらどうなのよ?!」
悲鳴のように叫んで、出来る限り尚から顔を背ける。
「まだだろ…俺を負かせて跪かせたいなら、最後までやってみろよ。ああ、でもラブシーンは自信ないとか?キスも満足に出来無そうだもんなお前」
あらかさまに馬鹿にした態度が、キョーコの自尊心を打ち砕いた。
「…っ…」
ぎりり、と尚を睨み付ける。
キスなんて、したこと、ない。
それを分かってて、私をうろたえさせるためだけにこんな事をするんだ!キスでコイツに勝つなんて…出来っこないって知ってて…!
無理矢理に顎を引き寄せられて、鼻先がぶつかりそうな位置から覗き込む尚。
キョーコは噛み付かんばかりに気丈な表情で取り繕ったが、一度崩れた虚勢は脆く、すでにすっかり尚のペースだった。
「続けてみろよ?なあ…?」
「ひ、卑怯よ!人の弱みに付け込むなんて…っ」
「俺を陥落させるんだろ?俺の全てが欲しいんだろ…?だったらキスしてみろよ?」
キス…なんて…
「さっきみたいに、ねだってみたらどうだ?『ショー』って、よ」
尚は演技中に受けた動揺を逆手に取り、キョーコの羞恥を煽る。
こんなに密着したことは今まで一度も無い。
見た目よりもがっしりとした大きな胸に、キョーコの柔らかな体が押し潰されそうに強く抱きこまれている。その感触に否が応にも男と女である事の事実を味あわされる。
…そんなの…したこと…
『君…キス、したことある…?』
……敦賀さん…私……
『……教えて、あげようか?』
屈辱に青ざめていたキョーコの表情が僅かに緩んだ。
尚は怪訝そうにその変化を見つめた。
「…キョーコ?」
「……ふ…馬鹿みたい…」
「?なにがだよ」
煮えるような憎悪と嫌悪で膨れ上がり激しく打ち鳴らされる鼓動は、自分の身体をがんじがらめにしているこの男にきっと聞こえている。
そんなキョーコを征服するように、悔し涙を浮かべたその眼差しを無言で見下ろす尚。
視線が絡み合う。
ここに、愛なんて存在しない、とキョーコは身震いする。
…忌々しい……
どうして、こんな奴に翻弄されないといけないんだろう。
「…あんたなんかに、うろたえる自分が愚かでしょうがないのよ…」
こんな羽目に陥るんだったら…夜の帝王の彼を怖がらないで、ちゃんと…敦賀さんに…
「…だから言ったろう?最上さん」
「………!?」
突然響いた声に心臓をつかみあげられ、混乱のままに声の先を探した。
同時にキョーコの体が何かに引っ張られ、耳に、艶のある低い声がすべり込む。
「俺が、キスの仕方を教えてあげるって」
「な………」
なんで…ここにいるの…
キョーコは信じられない面持ちで蓮の顔を見つめた。
心を満たしていた人物が、突如目の前に現れたのだ。まるで、魔法のように。
「うっわ…よくもそんな砂吐き台詞さらっと言えるわね?」
つい口走った言葉が聞こえたのだろうか。くるりと蓮が奏江の方を向いた。
奏江は一瞬たじろいだが、敦賀蓮はTVで見せるままの笑顔で彼女に告げた。
「琴南さん、第一試験は終了だ。最上さん?社長が今日はここまでにして帰っていいって」
「は、はい…」
キョーコはいまだ心臓がバクバクするのをおさえて、まだ信じられない気持ちでそっと彼を見つめた。凛然とした表情は何を思っているのだろうか。
敦賀さん…
驚いた…敦賀さんの事考えてた時にタイミングよく来るんだもの…きっと社長に頼まれたのよね…だけど、社長…なんで敦賀さんに頼んだんだろう?
敦賀さんは忙しい人なのに、よりにもよってこんな所に…。
「ハッ、なんで敦賀蓮ほどの男がそんなぱしりみたいな事してんだろうなァ?お前はここの社長の小間使いかなんかかよ?」
キョーコとの間に割り込んできた男を、尚はさもうっとおしげに睨んだ。
「おや?…ああ!不破君、まだいたんだ?君ももう帰ってもいいみたいだよ?だけど…驚いたな…別事務所の君がなぜこんな所に?」
今気がついたと言わんばかりに、きらきらと輝かんばかりの笑顔で尚を見る。
無茶苦茶白々しいっつーんだよ!
尚はちっと忌々しげに舌打ちをした。
ここへは、キョーコに会いに来ただけだった。
―――君の幼馴染…最上キョーコについて知りたい事がある。
突然の、LME社長名を出しての半ば強引なアポ取りにマネージャーである祥子はひどく驚いていたが、尚は気にもとめなかった。このところマスコミを騒がせている、自分とキョーコとの同棲から、キョーコのストーカー騒ぎ、現在付き合っているというまったく信憑性のないガセネタについて聞かれるのだろう…その程度だと思っていたのだ。
(…尚?うちに劣らない大きな事務所なんだからくれぐれも慎重に行動してちょうだいよ?
下手に気分害してもロクなことにはならないんだから…)
祥子さんの心配げな声。事を荒立てるなと釘を刺されもした。
そんなことはどうだってよかった。裏も表もなく、聞かれれば応えるまでだ、と思っていた。
だが蓋を開けてみれば、そんな話に触れる事もなく、人目を忍ぶように地下の一室に通されて、キョーコの所属場所を左右する実に愉快な企画を告げられたのだ。
「ご存知かもしれませんが、京子さんはこれまでずっと「ラブミー部」に所属してきました。社長は最上さんが他者に愛され、琴南さんが他者を愛せるようにと願って「ラブミー部」を作ったんです。その二人がどれだけ愛情を取り戻し成長したかを確かめる為の…言わば…社長の趣味のような企画なんです」
くだらないと一蹴し帰られてしまうと困るのだろう。
LME社事務所の人間(騎兵隊姿)は申し訳なさそうに、とても低姿勢で尚に企画内容を告げた。
「…俺に、お前らの社長の娯楽に付き合えってのかよ」
「そう言ってしまっては身も蓋もないのですが…」
あいつがどれだけ成長したかって?面白れー…成果を見せてもらおうじゃねーか。
結局のところ、尚自身も知りたかったのだ。女優としてのキョーコ。等身大の彼女の現状を。
そうしてむかえた彼女の演技に、一度はあっさりと、堕ちた。
だが、結局の所キョーコには経験が足りないのだ。すぐに立場を挽回し、まだ自分が優位に立っていることを、尚は再認識したのだった。
…あんなんじゃ、まだまだじゃーねーの?
あいつが「愛のテスト」に合格するなんて、俺があいつをどうかしない限り到底無理だろうからな。
尚は、優越感を味うのを確信しながら蓮に向き直る。
敦賀蓮は敵にもならない。いくらあいつを好きだろうが、キョーコは俺以外の男に目を向けない。
事務所の先輩という肩書きだけではキョーコの眼中に入り得ないのを尚は知っている。
ただ、相変わらず目障りな男には違いなかった。
自分とキョーコとの間をもう一度誇示してやるのもいいかもしれない。
「俺は呼び出されたんだよ。あんたらの社長直々にな」
「へえ…そう。何のためにだろうね?」
「俺が、コイツのなかでそれだけ比重を占めているってことだろ」
「なに、言ってんのよ?!あんたの存在なんか私にとっては虫けら同然よっ塵屑以下よ!!」
「何、むきになってんだよ、図星だからって見苦しい」
「馬鹿言わないでくれる?!自惚れんのもいい加減にしたらどうなのよ?!」
恒例のように二人の掛け合いが始まるかに思えたが、いきりたつキョーコの腕を蓮が悠然と引きよせて、何事も無かったかのように言ったのだった。
「さあ、最上さん帰ろうか?送っていくよ」
「へっ、は、はい…」
「そのつなぎ、着替えないといけないだろう?俺も、ちょっとまだ用事があるから…着替えたら先に琴南さんと地下の駐車場まで行っていてくれないか?俺の車の前で待っててくれればいいから」
「わ、わかりま、した…お、お先に失礼しますっ」
―――ああ…敦賀さんの、笑顔が…こっ怖ぁい!!
送ってくれるのは嬉しいけど…な、何か今日の事で言われそう…
キョーコは蓮に怯えた様子を見せつつ促されるままに出口へ向かった。
部屋からキョーコがいなくなると同時に尚の声が固く低く響いた。
「あんた…よくキョーコを送るのか?」
「そりゃ一緒の事務所ならそういうことも多いだろうね。気になるかい?」
「……知るか。どーでもいいっつの」
「そう。じゃあ、俺が最上さんを毎日送り迎えしたとしても別に全然気にならないんだろうね」
「…あんたがどれだけあいつに尽くしたところで、キョーコの気持ちはあんたにはむかねーだろうからな」
「そうでもないさ。彼女はけなげでかわいいからね、君には絶対にしないようなことも俺にはしてくれるんだよ?」
尚は一瞬目をむいて蓮を睨んだが、言葉の端々にとらわれまいとして、ふいとそっぽを向いた。
「はっ、俺とお前じゃあいつの中での比重が違うんだ、そう簡単にはいかねえと思うぜ」
「…欲しいと思うものをくれる人間に対して嫌な感情は持たないだろう?俺にはあの子に与えられるものが沢山ある。あの子に憎しみしかあげられない君と違ってね」
「そんなもん…あいつは受けとらねぇよ。俺以外の男があいつの心を占めるなんて有り得ないって言ってんだ。分の無い勝負なんてするだけ無駄だろうにご苦労なこった」
吐き捨てるように言って、立ち去ろうとする。蓮は凛とした声を、その背に投げかけた。
「そう思ってるのは…君だけじゃないのか?俺に分があろうとなかろうと、愛しているならそんなことは関係がない。どんなに時間がかかっても…必ずあの子が他人を愛せていると実感できるようにしてみせる。あの子が本来の姿を取り戻せるようにね。だから君は、安心して彼女の前から立ち去ってくれていい。彼女にとって憎しみすら残ってはいない君は必要ないだろうしね。君も幼馴染だというなら、そうやって彼女の幸福を願ってやってもいいだろう?」
はっきりと、キョーコへの感情を告げる蓮に向き直ると、尚は注意深く相手を見つめた。
俺が、キョーコを大切に思っていないって言うのかよ?
あいつは昔、俺のことが総てだと言った。
今日のキョーコを見た限り、それは今も変わってはいない。
俺への執着がキョーコにとっての総てだ。
たとえそれが、恨みの感情だとしても。
―――こいつ…やたらとこっちを煽るような事言いやがって…その手には乗らねぇんだよ!
「…言うだけなら簡単だろ。キョーコの本来の姿?見ただろ、俺と居る時があいつの本性だ」
蓮は、物憂げにため息をつく。
―――あれは、不破…おまえが作り出した姿だろう?いつまで勘違いし続ける気だ?
あの子は人を信じやすい。それだけに裏切られた時の衝撃は彼女にとって耐えられないものだったのだろう。あんな暗く澱んだ空気を作り出すほどに。
「あの子は、あんな荒んだ表情をする子じゃなかっただろう、君に裏切られるまではね」
「けっ、知りもしないで人の女にてめぇの理想押し付けてんじゃねぇ。だいたい俺はあいつを裏切った覚えなんか一度もねーんだよ!」
ふ、と蓮は再び満面に笑みを浮かべる。
女性であれば誰もが魅惑されるだろうその微笑みは、尚にとっては胡散臭さに満ちたものでしかない。とくに今のような場違いな笑みは、ひどく馬鹿にされている感を増長させた。
苛立ちをつのらせて、尚の表情は知らず険しくなる。
「いや、君の影響力ってたいしたものだよね?それだけは認めるよ、彼女の心に傷を負わせたんだからね」
最高の笑みで、毒を吐き出す。
「だけど、君は気に病まなくってもいい。俺が…必ず」
笑顔とは裏腹の、その視線に凄みが増す。
「不破尚という男がつけた傷を、一筋も残らず消し去ってみせる」
艶やかな微笑を溢れさせ、蓮は突き刺すように尚を見た。
彼女の望む懺儀の涙などいらない。
古い思い出に変わるよう、綺麗に塗りかえてしまえばいい。
「不破…おまえは、彼女にとって過去でしかないんだ」
揺ぎ無い決意とも言える強い意思をつき付ける蓮に、尚は僅かにひるんだ。
だがすぐに挑戦的な光を放つその眼光を迎えいれ、相手を睨み上げる。
「は、やけに自信たっぷりだな。まあ…無駄だとおもうぜ?」
別人のようだった演技中のキョーコの顔が尚の前にちらつく。
…そんな事…絶対させねぇ…アイツは、俺の女だ!
敦賀蓮が初めてはっきりと自分に突きつけた明確な宣戦布告を、不破尚は真っ向から受け止めたのだった。
4
蓮が駐車場へ着くと、車の前にはキョーコ一人が待っていた。
目に痛いピンクのつなぎから、淡い色合いのワンピースに着替えたキョーコの姿は蓮の口元を弛ませる。細い手足が薄暗い駐車場ではなお白く見えて蓮の視線を誘った。
自分の心理に気付かれないよう、蓮はいまさら気付いた事を口にした。
「あれ?琴南さんは?」
「あ、次の仕事があるからってとんで帰りました…」
「そう…」
いつものように助手席のドアを、開きエスコートする蓮。キョーコは密かに奥歯を噛み締めた。
ああ…助手席…苦手なのに…
モー子さんが一緒に帰ってくれれば…後部座席に乗せてもらえたのに。
突然思い出した忘れてた仕事って一体何なのかしら?まさか、モー子さん…
「乗って?」
「はっ!あっ、し、失礼しますっ」
やがて走り出す車の中で、二人の間にしばし沈黙が続く。
この空気には、どうにも慣れる事が出来ない。気まずさに耐えながら、キョーコはちらりと運転席の蓮を盗み見た。
押し黙ったキョーコを気にかけて彼女をうかがい見た蓮の視線と、ちょうど、ばちん、と視線が合ってしまい、お互いぎくしゃくと視線を戻す。
やがて軽いため息をつき、蓮が口を開く。
「困ったものだね、うちの社長にも…」
「はっ…はい…でも…私、こんなことでラブミー部を卒業出来るんでしょうか」
話しかけてもらえたことにホッとしながらも、キョーコは思い出して自己嫌悪に俯く。
あれじゃ、社長は納得しないわよね…
「ああ…それについては…俺次第みたいだけどね」
「へ?敦賀さん次第って、どういうことですか?……もしかして、私のラブミー手帳の点付けを事務所先輩の敦賀さんが任されているとか…?」
「……もし、そうだったらどうする?」
「嫌ですそんなの」
きっぱりと拒絶され、蓮は彼女の即答ぶりに呆れつつも、自分そのものを拒否されたような気がしてやや傷心した。
敦賀さんに採点されるなんてドキドキしますとか、お手柔らかにお願いしますね、とか、もっと言い様があるだろうに…そこまではっきり言わなくてもいいだろう?
「…へえ?俺に点数つけられるのは嫌なんだ?」
蓮が微笑むのを見て、キョーコは震え上がりながらあわてて言った。
「わ、私…一生ラブミー部卒業できない気がします…だって、敦賀さん、私には点数厳しいから…絶対満点なんてくれないと思うし」
そうか…この子は…あいかわらず俺に鬼教官みたいなイメージ持っているんだな…分かってはいたが…
やはり彼女が自分に対して期待するような感情を持っていないと確認させられるとかなりへこむ。
ここは、穏やか且つしっかりと否定しておかなければ…
「そんなことないよ、俺は、いつだって君には満点あげたいくらいなのに。でも、残念ながら俺は君に点数をつける立場じゃないんだ」
「そうですか、よかった…!」
「うん?」
「い、いえ…だって、今日の演技なんて…敦賀さんに見せられたものじゃなかったですから」
信号待ちで車が止まる。
静止する景色と自分の心が重なる。
今日の、演技…。
―――あんな自分は見せたくなかった…。
ショータロー相手にうろたえるなんて失態、敦賀さんにだけは見られたくなかった…。
―――あんな二人は見たくはなかった…。
軋むような胸の痛みと、嫉妬でどうにかなってしまいそうだった…。
相手が、不破尚だという事に、こんなにもわだかまりがあるのが嫌でならない―――
「…演技中、敦賀さんの顔が浮かんだんです」
「…え?」
「私、あんな男にキスなんて出来ないって、思い知ったから…」
蓮は黙り込んだキョーコの顔を見た。
うつむいたその頬が赤らんでいるような気がする。
今日の不破との勝負を思い出しているのか。
それとも…
蓮の心に、たまらず期待が、膨らむ。
他の男とのラブシーンの演技中に、俺の顔が浮かぶと言うのは、それは…
「敦賀さん…こうなることを見越してあの時私に演技指導をして下さってたんですよね?」
がくりと片肘を落とされた気分だった。
まさか、そんなわけないだろう最上さん…
「…あの時?」
けれども少しとぼけて話を続けてみることにした。なんとなく、この後の話の流れが掴めそうだ…。
「嘉月の演技にお付き合いした時の事ですよ…私、今日あらためて、敦賀さんの俳優としてのプロ意識、自分と比較したらなんだか恥かしくなって…自分の都合で話の流れを繋げられないなんて、自分の未熟さがとても嫌になったんです」
「いや…あの時は君のおかげで俺も自分の可能性に気付くことが出来たんだから。恥じることなんかないよ」
「そんなこと…」
「最上さん?俺でよかったら…君の演技指導に付き合うよ?」
「ほ、本当ですか?」
「ああ、俺も練習になるしね。君さえ良ければ時々相手してくれないか?」
「はい!!もちろんです!あ、ありがとうございます敦賀さん…」
生真面目なキョーコらしく素直に喜びを見せ、蓮の思惑には気がつきもしない。
あいつを見返してやりたいけど、私にはあれが限界。
でも、そんな事も言っていられないのよね…。
ドラマだって何だって、このお仕事をしていればいつかはキスシーンのひとつやふたつは免れないと思うから…
尚との演技。あの時、私は昔の自分を思い描いていた。
かつてはあれほど人を愛しいと思ったのに…もうあんな感情を演技以外で感じる事はないだろう。
誰かにつくすなんて愚かだと、未だに思えてならないのに。
そんな自分がラブミー部を卒業なんてやっぱり程遠い。
今日のだって、敦賀さんとの演技だって、迫ってくる唇に焦りと恐怖しか感じられないのに。それをどうやって乗り越えたらいいのか検討もつかない…
キョーコはぽつりと言った。
「私、苦手な事もきちんと出来るようになりたい…演技に関しては、妥協したくないんです…」
でも…
『敦賀さん…演技指導では、「ラブシーン」を教えて下さい…』なんて、そんな事、口が裂けたって言えない…。
だけど…そんなの、頼めるヒト、私には他にいない。
で、でも、敦賀さんに頼んだら、自分の身が持たないと思う…
そういうシーン中の敦賀さんは別人だもの…!「夜の帝王」だもの…!
ぐるぐると思いを廻らせて、俯いたままそれきり黙り込んでしまったキョーコ。
何を切り出したがっているのか、蓮は薄々感じ取っていた。
女優としての、彼女の切実な願い。それを逆手に取りたくは無い。
けれども、触れたくて、たまらなかった。
魔法にでもかかったように、彼女から目を逸らすことができない。
その視線に気が付いて、キョーコが顔を上げる。
彼女の体を引き寄せたくなるのを押し止めて、彼女の真摯な想いを見つめ返した。
そんな蓮の気持ちなど、キョーコは気付きもしない。
それが、なおさら蓮の感情を煽りたてる。
知らせたい…今すぐにでもその体を抱きしめて想いの限り口付けてしまいたい…。
「敦賀さん?」
キョーコの声に我にかえる。
駄目だ。
彼女の傷を癒す?癒されたがってるのは…俺の方じゃないのか…
「あ、ああっ?すっすいません…私の悩みなんかにつき合わせてしまったみたいで…全然気がつかなくて、すみませんっ」
車外の風景に気がついて、キョーコは慌てて謝りだした。
キョーコの家近くに到着し、蓮はとうに車を止めていたのだが、思いにとらわれていたキョーコはまったく気がついていなかったのだ。
「敦賀さん、今日はありがとうございました、お疲れでしょうからゆっくり休まれて下さいね」
身をひねって助手席のドアをあけようとするキョーコを呼び止める。
理性の声が薄く心を引きとめる。大丈夫…彼女の性格はよく分かっているから。
「…最上さん、お願いがあるんだけど」
「え?なんですか?」
向き直った彼女を、指先でちょいちょいと呼び寄せる。その顔にあるのは紳士的な擬似笑顔。
キョーコは口の端をひくつかせた。
「え、な、なに?な、なんでしょう?!」
笑顔を見たとたんキョーコの体は緊張に強張ってしまう。
な、何…?!私また何か気にさわるような事した…?!
ぐるぐるとそれまでの会話をたぐってみるが思い当たる事はあるような、ないような…。
蓮は助手席の隅で怯えて縮こまっているキョーコとの距離を、ゆっくりとした動きで狭め、至近距離から密やかに囁いた。
「…キス、してくれないか?」
「へ…っ」
「してくれないと、俺は帰れないよ?」
蓮の眼に湧きあがる甘い輝きに目を瞠って、キョーコは息をつめた。背後では怨キョが一名残らず干上がってしまっている。
「な、ななに、どどどど、どうしたんです、敦賀さん?」
青ざめてどもるキョーコに手をのばし、蓮はその前髪に触れる。
それだけでキョーコは蛇に睨まれたかのように硬直してしまう。
その不慣れぶりが彼女らしくて、蓮は思わずふき出してしまった。
「凄い顔だね、最上さん」
「っ…敦賀さんが変な事言うからですっ…」
「だってさっき言ってただろう?演技指導して欲しいって。これくらいで動揺してたらダメだろ?こんなことじゃ君が今日の事を乗り越えてちゃんと演技できるようになるのか心配だよ」
「だからって…こ、こんなところで…誰かに見られでもしたら」
「ああ、初のゴシップ誌登場?いいんじゃないか?それはそれで」
「ダメです!いいわけないじゃないですか!私はともかく、敦賀さんにそんな悪い噂なんていけません!しかも相手が私なんかだなんてもってのほかです!」
ぎゅっと拳を握りしめ声を高くして反論するキョーコ。本気で心配してくるから堪らない。
…君となら、社長や社さんが満面の笑顔で喜びそうな気がするけどね。
「あんなの、デタラメばかりだろ?俺はそんなのどうでもいいよ」
「でっ、でも…」
「いいから。それとも…俺と演技したくなくて話を誤魔化そうとしてるのかな?」
ぐっ、と言葉に詰まるキョーコ。
「最上さん?そうなの?」
「ち、ちが…」
否定しかけ、それがどういうことなのか気が付いたのか、泣きそうな顔で黙り込む。
ややして、頬を赤らめながら、蚊の鳴くような声で蓮の思惑に乗ってきた。
「あの、じゃ、最初なんでほっぺとかでも…いいでしょうか?」
自分でけしかけておきながら、蓮はそんな彼女の馬鹿が付くほどの真面目さを危うむ。
…まったく、演技の練習だと言えば君は何でもするのか?俺だからいいものの…
そう考えながら、つい、何か様々想像してしまった蓮はコホン、と誤魔化すように咳払いをして横を向いた。
「そんな挨拶程度のものはいらないよ」
「じゃ、じゃあ…どんな…」
蓮に顔を背けられたと思い込んで、キョーコはおろおろした。
「君からのキスだったら、どんなものでも」
「い、言ってる事が矛盾してますよ…」
「そうだな…場所じゃない、かな。欲しいのは、唇に、だけだ」
キョーコを正面から見つめ、その唇をなぞる。
彼女の呼吸が、熱く感じられる。そこに存在している、生身の温かな体。
こんなに好きでたまらないことを、どうやったら君は理解できる?
どうしたら、愛しむことを受け入れてくれるだろう?
「あれ?最上さん?」
キョーコの言うところの「夜の帝王」である蓮を目の当たりにしたせいで、
きゅううう…と赤い顔でゆで上がり、硬直していたその体がへたへたと力つきる。
「だっ…ダメです~とてもじゃないけど出来ません~~」
シートにくたりともたれて、限界とばかりに息絶え絶えに言うキョーコ。
くすくすと笑いながら、蓮はキョーコの顔をそっと上向かせて強引に視線を結び合わせる。
潤んだ瞳が懸命に見上げてくる。
おそらく彼女は今、これは、演技指導なんだから、と必死に自分に言い聞かせているのだろう。
その健気さに、猛烈な愛しさが、こみ上げてくる…。
「最上さん…?それじゃ、ラブシーンなんて演技できないだろう?」
囁かれる言葉。
キョーコは艶めいた眼差しに耐え切れず思わずぎゅっと目を閉じた。
「今日の演技だって、こういう場面でつまってしまったんじゃないのかな」
「…っ、相手にもよります!今日のはアイツが相手だったから…!」
「そう?じゃあ、目、開けてごらん?」
蓮はその瞼が 開くのを待つ。
上気した頬の上で、そうっと慎重な動きで澄んだ瞳が現れるのを見計らって…
「君が、好きだ…」
吐息をもらし、少しかすれた声で告げる。
「ひゃ…ああ?!」
それをとどめとばかりに、キョーコはふらぁ~~っと、完全に平衡感覚を失って後ろへと倒れこんだ。それを支えてやりながら、蓮の口元から、くっくと笑いがこぼれる。
…かわいい…もう、どうしていいか分からないくらいに。
「も、絶対無理だね、ドラマの話もきてるみたいだけど、その仕事、やめておいたほうがいいんじゃない?」
はたはたと馬鹿にしたように片手を振って彼女の負けず嫌いな心を擽ってみる。
すると案の定その言葉にへばった体を再起させ、食って掛かってきた。
「い、嫌です!初めての主演ドラマなんですよ!?」
「でも純愛物の主演ともなればキスシーンなんて当たり前にあると思うよ?セリフだけでのびてしまうくせに君にできるの?」
「役に入り込めば、出来るはずです。ショータローとだって、中断しなかったらきっと出来てたと思」
今日何度目の輝きだろう…この笑顔……お、怒ってる!わ…私がちゃんと演技しないから…?!
「じゃあ、やってごらん?」
「敦賀さんがお相手じゃできません…よ…」
「……それは…どういう意味かな?俺じゃ役不足ってこと?」
「わっ悪い意味じゃなくて、そのっ敦賀さんのことはとても尊敬してるんで…」
「尊敬する先輩相手には出来ないっていうんだ?だけどね、俺は君の演技を認めてるんだよ?だから…君に尊敬されるような事は何もない。むしろ対等に思ってくれて構わないんだ」
「んな!何をおっしゃるんですか!!そんな!とんでもない!私が敦賀さんと対等だなんて!!足元にも及ばないですから!!そんな恐れ多い事!!私にはとてもとても!!!」
猛烈な勢いで首を横に振る彼女に、蓮は苦く笑みをこぼす。
…ああ、仕方ないな…まずはそこから正していこうか?
君にとって俺が真近にいる生身の男だって事を認識させたくて堪らないけれど。
君の心が付いてこれるように、少しずつ、慎重に。
大切な人を作れない自分にとって、彼女の更生に時間がかかったとしても、それは決して苦しいものではなさそうに思えた。
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