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月への階段 4   認めない…  

 


「遅っせえな…」

 

思わず、呟きがもれる。

待つのは嫌いだ。特に今のような気分であれば、なおさらに苛々してくる…。

それでも尚は、廊下の壁にもたれ、キョーコが戻ってくるのを待った。

今日はあのニワトリの仕事があるはずだ…そう考えて収録の時間が終わるのを待って、スタジオ内にキョーコの姿を探したが、何故かどこにも見つけられなかった。残っていたスタッフに所在をたずねるが、どこに行ったか分からない、控え室にも戻っていないのか坊の着ぐるみも返却されていない、という。

…あんなぬいぐるみ着たままどこいってんだよ、キョーコ…

そうして仕方なく、控え室の前で待つに至る。ここで待っていれば、必ず着替えに戻ってくるはずだと思ったのだ。だが、三十分たってもキョーコは姿を見せない。

もしかして、そのままあの姿で帰ったのか?

…まさかな。いくらあいつでも、さすがにそれはねーだろう…

 

…ぷきゅ……ぷきゅ……ぷきゅ……

やがて廊下の向こうから、丸々とした白い物体がゆっくりと足音をたてながらやってくるのを認めて、尚は組んでいた腕を外すとゆらりと壁際から身を起こした。

…やっとかよ…こないだから待たされてばっかじゃねーか。

まずは文句でもつけてやろうと歩み寄り、いきなりそのずんぐりとしたニワトリの頭を引き上げた。

「おい、キョー…」

だが、キョーコの表情を見た瞬間に、尚はぴたりと動きを止める。

 

「お前…」

キョーコは尚に気付くと一瞬浅い笑いを浮かべたように見えたが、そのまま静かに手を伸ばし坊の頭を手に抱え持つと尚の横を通り過ぎた。


その目は赤く充血し、頬には涙の跡が幾筋もある。

 

……泣いている?キョーコが?!

「お、おい?」

尚は戸惑いつつも、すぐさま泣いている理由が蓮にあると予測した。

 

蓮の宣言を聞いてからというもの、嫌な妄想ばかりが頭に浮かんでは離れず、それはもう散々だった。腹立たしいほどリアルに想像できるそれは、キョーコに会う事がない間にみるみるうちに膨れ上がった。


そんなはずはない。そう思いながらも、とうとう我慢できずにキョーコが仕事を終えるのを待ち伏せていたのだった。だが…。

「どう、したんだよ?キョーコ?」

乾いた喉から自分でも意外なほどに弱々しい声がでた。余程の事がない限りキョーコは泣かないと思っていた。自分の頭の中のキョーコと蓮。まさか、という思いが交錯し、尚の不安を呼び起こす。

「おい、キョーコ?」

からからになった口中を舌で湿らせ、尚はもう一度言葉に力をこめてキョーコを呼び止める。


「…あいつと、なにかあったのか?」

肩を掴まれて、キョーコは、ふ、と尚を見る。虚ろな表情。泣きはらした眼。

「あいつって…?」

かさり、と乾燥した声。何の感情も無い無機質な響きに、尚は眉を顰める。

「敦賀に、なにかされたんだろ?あいつが、お前に惚れてるの、俺、知ってるから…」

ふっつりと、キョーコの中で糸のように細く張りつめていた最後の否定が途切れた。

 

―――ショータローは、気が付いてたんだ。

私は、自分の感情が恋だと思いたくなくて、敦賀さんの気持ちなんて考えもしなかった。気付けるはずもない。演技という嘘で塗り固められて、お互いの心なんて見えなかったから。

 

「馬鹿ね…そんなわけないじゃない」

キョーコから返ってきた視線には、かつてのような挑戦的な凄みのある笑みも、憎悪の気配もない。以前のように言い返すわけでもなく、キョーコとの間に、静寂がただ横たわる。
ふい、と無言のまま、空気が動くように無気力に立ち去ろうとするキョーコ。

「…キョーコ…?」

 

―――どんな生き方をしても、痛みも涙も堪えるもので、我慢するのが当たり前だと思っていた。
望むのは、とても心が苦しいことだから。

だけど……

「私、あなたを許すことにしたの、いいえ、許すっていう言い方はちょっと違うわね…」

「あなたに、関心がまったく無い…それが表現的にはぴったり合うかもしれない」

憎むのも愛するのも、もうしたくない…


尚は背を向けるキョーコの手首をつかんだ。

「…待てよ…お前、泣いてるじゃ、ねーか…本当は、なにか…あったんだろ?」

細切れになる言葉を繋げて、居心地が悪そうに尚は言う。

心配?ああ、そういえばこいつは、私が泣くのを見るのは苦手だったわね…。

「気にしないで。私には構わないでくれていいわ…じゃあ、さようなら、『不破さん』」

「お、おい…!」

 

キョーコの手が、緩やかに尚の手をすり抜ける。

そうして控え室に消えたキョーコに、それ以上何を言えばいいのかも分からなくて、尚は扉の前で立ちすくんだ。

 


…あれが、キョーコだってのかよ?あんな、抜け殻みたいな女が?

……あいつ…いったい、キョーコに何しやがった?!

 

 

 

 

 

 


彼女の様子が、おかしい。


あの日、後ずさりの後からずっと、何か俺を避け続けているような気がする。
思えばニワトリの話をしたあたりから、少し様子がおかしかった。

「やっぱり…ニワトリと話す男なんて不気味だと思われたのか…?」

メルヘン好きな彼女ならばむしろ喜びそうなものだけれど…大の男が着ぐるみと馴れ合っているというのは、普通に気色悪かったかもしれない…。

しかし…彼女といい、ニワトリの彼といい、どうも情緒不安定のようだ…。

「蓮?ロケバス着てるよ、時間おしてるみたいだから急いで」

蓮の背を押す社の手がぴたりと止まる。

「社さん?どうしたんです」

「れ、蓮、あれ!」

不破だった。ずかずかと荒い歩幅で近付いてくると目の前に立ちはだかった。

 

「よお…話があるんだ…」

「何かな…不破君が俺に話すことといったら、最上さんのことくらいだろうけどね」

睨み付けてくる眼に怒りが満ちている。
彼女の変調の理由を、不破は知っているのかもしれない…。

「敦賀…てめぇ…キョーコに何した…?」

俺が彼女を傷つけたと思ってるのか…不破がどういう経緯で彼女に会ったのかひどく気にかかり、つい嫉妬を煽るような言葉でその怒りを挑発したくなる。


「…何をしたか、話してもいいのかな?君がショックを受けるような『最上さんとの事』沢山話してあげられそうだけど?」

「て、めぇ、ふざけんな!!」

拳が頬をかすめる。

「…役者の顔、殴るのは考えものだよ?不破くん?どこかのストーカーにしたみたいに俺も殴り倒したいんだろうけどね。俺は殴り合いはあまり好きじゃない。それに残念ながら時間も無いしね、話があるならまたにしてくれ」

「…っ!」

腹立たしげに睨む尚を、蓮は冷ややかに見つめ返し、去り際、最も気にしているだろう事を言い残した。

「心配しなくても、俺は彼女とキスひとつしてやしないよ…最上さんの様子がおかしいのには…俺にも心当たりが無いんだ」

「…っ嘘だ!でなけりゃ、あいつが泣くなんてこと他にあるかよ!」


泣いていた?最上さんが?

なぜ?

 

 


疑問符が、それから一日中蓮の心を占めて離れなかった。

その日のドラマ撮りを終えてロケ先から戻る頃、蓮の携帯がメールの着信を伝える。


それは、その日散々蓮を思い悩ませた、彼女からだった。

 

 

 

 

 



「珍しいね、君から会えるかどうかメールしてくるなんて」

「お忙しいのに…すみません」

「いいよ、大丈夫だから。それより最上さん、主演ドラマ、断ったんだって?」

「…はい」

「どうして?あんなに張り切ってたじゃないか…何があった?」

「何も、ないですよ」

「…今日、不破が俺の所へ来たよ。よほど君のことが心配らしいね」

「ショータローが…?」

「なぜだか彼は、俺が君をもてあそんで捨てたと思いこんでいたよ。とても怒っていたみたいだけど、それとドラマの件と何か関係があるのかな、最上さん?」

「関係なんて何もありません。…だいたい捨てた本人が何言ってるんでしょうね。怒る立場じゃないくせに…そんな勘違いまでして…馬鹿みたい…」

「うん。捨てるなんてとんでもないな…俺は、君をこんなに大事に思っているのにね?」

そんな冗談なんかに、心臓がはね上がらないようにして…

言うのよ…キョーコ…

 


「敦賀さん…演技指導、もう終わりにして頂いていいです」

「え?」

「私、やっぱり駄目みたいです。これからは、『そういうシーン』がない役を選んでいく事にしました。もう…私の力では、それで、充分だと思いますから」

…きっともう共演する事も無い。敦賀さんが出演する仕事は避けていくつもりだから。

 


蓮は気付く。打ち沈んだ静かな表情。
それは、彼女が固く心に決意をした時の顔だった。


いったい、どうしたんだ?
その心境の変化は何故だ…?


どう返答していいか分らなくて、彼女の次の言葉を待つしかなかった。
それにもう何を言っても、彼女が言おうとしている事を変えられない気がしていた。

 

「…だからもう、演技を敦賀さんに教わる必要も無くなったんです、いままでありがとうございました…」

「だけど、最上さん…」

言葉が、喉につまる。何を、言えばいい?

 


「ご迷惑ばかりかけてすみませんでした。敦賀さんは…私にとって、ずっと、大切な演技の先輩ですから…」

まるで最後の決別をつけるみたいに、少しも蓮を見ようとはしないキョーコ。

 

自分の側から離れていこうとしているのをはっきりと感じて、蓮は夢中で手を伸ばして、キョーコを胸の中へと引き寄せた。

キョーコの視界が一気に陰り、頬に温かな蓮の体温が感じられる。耳に、体に、低く戸惑いの声が響く。

 

「…言ってくれないか?俺が、君に何かしたのなら…。そんな風に理由もわからず避けられるのは堪らない」

「私は、敦賀さんを避けてなんか、ないです。だから離してもらえませんか」

「嫌だ」
  
頬を包んでいた手を彼女の体に投げ出して、息もできないほどに強く、思いきり抱きしめる。
手離したら、もうそれで最後のような気がした。


全身が熱を帯びてゆく。

「…離して、下さい」

見上げるキョーコの瞳に、艶っぽく瞬く蓮の瞳が映しこまれる。

「離せない。ちゃんと話を聞くまでは、離さないから…」

「………だから、話なんて、もう…さっきお話したので全部です」

射止めるようにして、蓮は確信に触れる。

「…君は…気が付いていたんだね」

「…何にですか」

「俺が、演技していなかった事に」

 

『君が好きだ…』

あれは、真実の言葉。

すべてが、伝えたくて心の内から自然に出ていた言葉だった。

 


「それで、君は俺から逃げるの?俺に何の答えも出さないままで?」


「…敦賀さん、私はもう、恋愛はしないんです」


決然とした態度だった。


「もう行かないと、次の仕事、間に合わなくなりますよ?今日は来て頂いて、ありがとうございました。私もこれで、失礼します」

テキパキと言葉を並べて、キョーコは静かに蓮の胸を押し退けて顔を背けた。

「それじゃあ、さよなら、敦賀さん」

 

 

 


ラブシーンの演技ではあんなに意識して動揺していた彼女が、今は動じなかった。

そうして、恋愛はしないと言った。

 


…それならば…俺を避ける理由は一つしかないと…君は気が付いているだろうか…?

 

 

 

 

 

「社さん…頼みがあるんです」

「え、何?キョーコちゃんのとのこと?」

蓮は苦笑いをする。
このヒトはいつだって俺と最上さんとの仲を気にしている。
ここまで俳優の恋愛に寛大というか積極的なマネージャーというのも珍しいんじゃないだろうか…。

「だあって、さ。蓮、俺になんにも相談してくれないんだもん。ここんとこお前もキョーコちゃんもなんか元気ないから絶対二人の間に何かあったんだって心配してたのに。もうちょっとお兄さんを頼りにしたらどうなんだよ」

「はは、頼りにしてますよ、これからは特にね」

苦笑いの蓮を、社はじっと見つめた。

「お前、さ、最近もうかなり認めてるよな。キョーコちゃんとの事」

蓮はくすり、と自嘲的に笑いかける。

「ええ…俺、もう、かなり追い詰められてますから。頼み事も、社さんのおっしゃるとおり最上さんのことですよ…」

頼みがある…蓮がいままで俺にした数少ない頼み事は、元を辿ればだいたいキョーコちゃんのことだった。

 

こうして、表立って彼女に関して頼みがあると言うのは初めてだ…。

―――蓮…おまえ、やっと本気になってくれたんだな…。


ずっと恋路を見守ってきた社は、感慨深い気持ちで蓮を見ながら尋ねる。

「へえぇ…で、俺は何をしたらいいの?」

「社さんの仕事を増やしてしまって申し訳ないんですが…少しの間でいいんです。最上さんのマネージャーとして、彼女のスケジュールを、俺に合わせてくれませんか?」

 

 


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