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※「月への階段」続編です※
1
誰もいない座敷の奥。
座布団に顔をうずめ、声を漏らさない様にして泣き続ける小さな背中。
それを慰める事も出来ないで、襖の陰で立ち尽くす自分がいた。
重苦しい思いで居心地の悪さを感じながらもその場所を離れる事ができないまま、どれくらい時間が過ぎたのだろう。
嗚咽が聞こえなくなったのに気が付いて、俺は部屋の中をのぞきこみ声をかけた。
「………おい」
泣きつかれて眠ってしまったようだ。キョーコを起こさないように、音を立てずに近寄ってその側に座る。
泣き腫らしてむくんだ瞼。閉じた目尻は赤く、丸い頬にはぐしゃぐしゃと涙で濡れた髪が貼り付いている。
目を覚ますんじゃないかとびくびくしつつも、指先で濡れた髪を耳までかきあげてやった。すると泣きの余韻のようにひーぃっく、と、しゃくりあげたので、起きたのかとどきりとした。けれどもすぐに、すやーっと寝息をたてたのを確認して、ほっと息をつく。
まったく…こんなとこで寝てんじゃねぇよ、ほんとしょうがないやつだな……
―――しょうがないのはどっちだよ…
あいつが母親のことで辛い時、いつだって声すらかけられなかった。
キョーコの涙に、うろたえる自分がもどかしくてイラつく。
―――気にしないで
私には構わないでくれていいわ…
じゃあ、さようなら、『不破さん』…
気の効いたセリフひとつも何もいえなかった。
俺は、あの頃と何も変わっていなかったんだ……キョーコ…
涙を隠すのは、慣れている。この時間にこんな片隅の部屋まで来る人は誰もいないだろうから、人知れず泣くにはちょうどいい。
おかあさん…おかあさん…
―――こんな出来の悪い子……比べたら…―――
誰かと比べられてしまうのは、わたしが、バカだから…
だからおかあさんはわたしを好きになってくれないんだ……
わたしはどうしてこんなにバカなんだろう……
頭が良くてキレイだったら、おかあさん喜んでくれるってわかってるのに…!
そうして人目を忍んで泣いているうちに、いつの間にか泣きつかれて眠ってしまったのだろう。日は暮れかけ窓の色は夕日のオレンジに染まっている。
むくりと、顔をあげると、隣で寝息をたてているのはこの旅館の一人息子。キョーコにとって何より大切な存在だった。
「しょーちゃん…」
「ん……」
「こんなとこで寝てたらカゼひいちゃうよ?」
「……んあ?」
目をこすりながら、まだ眠たそうにぼんやりとしている彼に、キョーコは頬をすりよせた。
「しょーちゃん…もしかして、ずっといっしょにいてくれたの?」
「っ…?あっ?!そ、そんなんじゃねーよっ。俺が寝てるとこへおまえがっ」
言葉が続かずに押し黙り、途端に機嫌悪そうに横を向く。
怒らせてしまいたくないから、それ以上は何も言わずにキョーコはそっと尚を見た。夕日のせいで、ふてくされたその頬が赤らんでいる。
「おらっ、行くぞ。あーくそ暑いからくっつくなよ」
遠まわしな彼の優しさがうれしかった。
こういう時になぐさめの言葉は決して言わないけれど、いつだってそばにいて哀しさを忘れさせてくれた。
私にはショーちゃんがいる…
だから、だいじょうぶ…かなしくなんてない…
そうやって長い間、彼を中心に世界は回っていた。
けれども、愛が憎に変わっても続くと思われた執着は、いま薄れつつある。
―――もう大丈夫だよ、しょーちゃん…
暑い夏の日差しは苦手だ。
むっとした濃厚な緑の匂いを振り切るようにして、木漏れ日の中を駆け抜ける。
やがて視界が開けた途端、川辺に吹き抜ける風を感じ、青く澄んだ空に目を眇める。
そうしてぐるりと川原を見回した先に彼女を見つけた。
瞳を見開いて名前を呼び、微笑む君が駆け寄ってくる。
「コーン!」
「やあ」
「聞いて聞いて!あのね、しょーちゃんがきのうね!」
開口一番のその名前に、俺は苦笑いを浮かべる。
きっと、また泣いているだろうと思っていたのに。
「しょーちゃんが、ずっとそばにいてくれたの。やっぱりしょーちゃんはキョーコの王子様なんだぁーってうれしかったあ!」
「…そう、よかったじゃないか」
彼女が幼馴染の話をしだすと、途端に心の中に靄がかかる。
彼女がとても嬉しそうにしているのになぜなのか、それが分かったのは数年先のことだった。
「コーン?どうしたの?なんか怒ってる?」
―――コーン…か
月日は流れ、奇跡に近い確率で再び彼女に会うことができた。初めて再会したとき、髪の色は変わっていても。すぐに、彼女だと分かった。変わってしまったのだと、思っていたのに、本質的に何も変わっていないと気が付いたあの時から、この想いに嵌まり込んでいたのかもしれない……
社さんが告げた『コーン』の正体を、彼女は全く信じなかった。
彼女から訊ねられる事もなかったから、あえて自ら名乗る事もしなかった。
今更、知られたくはない。
今だからこそ、尚更に。
失ったと思ってきたものが、ひらりと目前で瞬くように腕の中に飛び込んできた…それをみすみす逃すような真似はしたくない。
リビングのテーブルで勉強中、居眠りをしている彼女をそっと抱き上げながら囁く。
「…また君は…こんなところで寝ると風邪をひくと言ってるだろう?」
「…う…ん……しょ…ちゃん、ありがと…」
寝言と満面の笑み。彼女がどんな夢を見ているか予測するのは他愛もない。
過去なんて、いま腕の中にいる彼女に比べれば、取るに足らない些細なことだ、と自分に言い聞かせて、彼女を起こさぬようにベッドへと運んだ。
前途多難であると知っていても、手をのばさずにはいられない。
そうして甘さと痛みを味わうのは、そう悪い気分ではなかった。
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