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気持ちを落ち着かせるために、大きく呼吸を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。短く切った黒髪を気にして指先でその毛先をもてあそびながら、ホテルの扉からその人が現れるのをドキドキと胸を昂ぶらせて待った。
そうして彼が自分を見てどんな表情をするのか確認するよりも早く、会えた嬉しさのまま勢いよく抱きついたのだった。
「ショーちゃんっ」
飛び込むようにしがみ付いて来た美森を、尚は呆れ顔で見下ろした。
「ポチリか…なんだよ、こんな所まで…なんか急用かよ?」
「なんだはないでしょお?!電話もメールも通じないし!もう、ずっと会えなくて淋しかったんだから!ここだってやっと来たんだよ?もしかしたら会ってくれないかなって思ったけど…」
言いながら、美森はその瞳に影を落としてうつむいた。
フロントで彼の宿泊を確認したとき、名前も確認せずに「承っております」とすぐに彼のいる部屋の号室を案内された。
突然の来訪なのに部屋に通してもらえるとは思ってもなかったし、もしかしたら会うのさえ断られるかもしれないと不安だったのに。
せめて話でもと思っていた美森は、あっさりと部屋を案内されたことがひどく腑に落ちなかった。
誰かが来る予定だったの?
もしかして…ううん、もしそうだとしても、きっとマネージャーさんとかだよね?
「…髪、切ったのかよ」
気持ちが沈みかけていた美森はその言葉にぱっと顔を輝かせる。
「うん!今度の役のために切ったのっ。でもあんまり、気に入ってない…会う人みんな長いほうが良かったって言うし…ね、ショーちゃんも長いほうがよかった?ショーちゃんが気に入ってくれたら美森この髪型好きになれるのに。ね、可愛い?似合ってる?」
「ああ、まあな…」
「ほんとっ?!わぁあすっごく嬉しい~!そうだっ、ねね、今度のオフ、一緒に付き合って?美森、ショーちゃんに休み合わせるから。ねっ、いいでしょう?」
「無理だ。だいたいオフにわざわざ約束なんてめんどくせぇ事しなくったって会おうとおもえば今みてーに会えんだろ?」
「むぅう~だってそうでもしなきゃなかなかショーちゃんに会えないんだもん。ねね、いいよね?」
「………」
返事はない。そっけない素振りで視線をそらす尚。
もう帰れと言われそうな気がして、美森は慌てて部屋の中に話題を探そうと見回す。
「っ…」
途端、テーブルに投げ出されたままの週刊誌が目に止まって、美森は泣きそうな顔になり唇を噛んだ。
知りたくもないのに耳に入ってくる、今、最も騒がれているその話題。大きな見出しに見知った名前が連なっている。
敦賀蓮、キョーコ…そして不破尚の名前…
「…まさか、ショーちゃん、あの人と…」
その目のふちがみるみる赤くなっていく。
言うのも辛そうにしている美森に尚は呆れて溜息をつく。
「勘弁しろ…お前まであんな噂信じるってのかよ?あんなん全部…」
くっと喉元に何かがつまったような気がした。尚は吐き出すように言葉をつなげる。
「でっち上げ、だ…」
「そう…そうだよね、ごめんねショーちゃん、だって…不安でしょうがなかったから…ショーちゃん、そういうこと何にも言ってくれないし…」
「………」
ふう、と溜息をついて、尚は立ち上がりポンと美森の頭をはたく。
しばらく沈黙した後で、幾分口調をゆるめて溜息をついた。
「しょーがねーなぁ。暇が出来たら教えてやるから、大人しく待ってろ」
「本当?」
「ああ」
即座に、にこぉっと笑顔を見せる美森が、尚は不思議でならない。
なんでそんなに約束を欲しがるんだろう。
こういうふにゃけた女とのやり取りは、苦手だ。それなのに、懐かれると放っておけない…
面倒に思えても、つい受け入れてしまうのは…幼い時からもう何年も繰り返してきた癖のせいだろうか…それとも密かなトラウマなのか。
「ね、じゃ、約束のキスして?おでことかじゃなく、ちゃんとしたのだよ…?」
そしてなんでキスが約束の確証になるのか理解に苦しむ…
そんなもんで気が済むんなら、いくらでもくれてやる。
返事がわりに、身を屈める。
黒髪の下、そっと伏せられた瞳。
…胸を焦がすような感覚に、尚は目を眇めた。
「…ショーちゃん?」
目を閉じて待っていても、いつまでたっても唇には何も触れない。
不審に思い、美森はそおっと瞼をあげて尚の顔をうかがった。
「?」
そうして、何かに困惑し呆然とした表情の彼が掠れた声で自分に謝るのを聞いた。
「悪い…」
「えっ、ま、まってよぉ、どうしたの?!」
「…帰ってくれ」
「そんな…ショーちゃん…」
「…」
大きな瞳が瞬きを止める。
見開かれたその目に涙がにじむ前に尚は視線を背ける。
「分かった…帰る、ね…」
胸に切なさを募らせながらも、美森は彼の意思には背けないからそれ以上は何も言えなかった。
仕方なく美森が部屋を出ようとすると、そっと開けた扉にゴツンと何かがぶつかった。
「…痛っ」
「あ、ごめんなさ…」
条件反射で謝りかけたが、廊下に立っていた人物を見て、美森は哀しさも吹き飛ぶような衝撃を受けて思わず声を荒げた。
「ああっ…あ、あんた、なんでここにっ…!」
「それは私が知りたいわね…好き好んでここに居るわけじゃないのよっあのウルトラ馬鹿男に呼びつけられたの」
「ショーちゃんをそんな風に言うなんて…赦せない!何様のつもりよ?!」
きっと睨んでくる視線を手のひらで押し返しながら、キョーコは辟易したように言った。
「言ってるでしょ、あいつと私はそういう甘い関係にはなり得ないって」
相変わらず…この子相当なショータロー信者ね…
「うっ、嘘!そんな事言ったって現にここに会いに来てるじゃない!なんて最低な女なの!ダメダメダメーーー!駄目なんだから!!私が先にショーちゃんとっ」
「あーはいはい邪魔してごめんなさいねーちょっとだけ待っててくれればすぐ帰るからーどうせくだらない用でしょうからすぐ終わるわー」
棒読みでそう言いながら、そうだ!とばかりにキョーコは美森の手をとった。
「なんなら居てくれてもいいのよ?別にそれでも何っにも問題ないし」
どれだけあの男が卑怯な人間なのか目の当たりにするといいんだわ。
自分の名声の為に他人を貶めるようなことをほのめかす奴なんだから!
ああでも、この子のことだからそんなことであいつに幻滅するなんて事ないかもしれないわね。
恋は盲目っていうから…
「駄目だ美森。帰れって言っただろ」
「どうして?!別にいいでしょう?」
「俺はこいつと話があるんだ」
「そんな…だってこの女…っも、最上さんは居てもいいって」
「駄目だ」
「ショーちゃん、言ったよね?さっき…この人とはなんの関わりもないって。噂なんて嘘だって。噂を否定するんなら…こんな所でこっそり会うなんておかしいじゃない!話っていったいなんなの?!二人でなきゃ、話せないようなことなの?」
「ああ、そうだ。おまえには関係のない話だ、だから帰れ」
「っ…!」
すがる様に尚を見つめていた美森の表情がゆがむ。
もう一度ぎりっとキョーコを睨むけれど、その瞳にさっきまでの力は無かった。
黒髪、ショートヘア。似たような背格好。
まちがいない…フロントで私はこの人と勘違いされたんだ。
美森はそう確信して、涙をあふれさせながら勢いよく扉を開けてそこから逃げる様に走り去った。
扉が閉まると同時にキョーコは尚に食って掛かる。
「ちょっと!そんな言い方ってないでしょう!あの子、泣いてたわよ!ほらすぐ追っかけなさいよ!お得意でしょ、女の子慰めてあげるのは」
「…いいから、入れ。そんな所で騒いでんなよ、またマスコミのネタにされたいのか?」
「そんなわけないでしょ?!だいたいあんたが…ちょ、ちょっとっ!なんなのよいったい!」
腕をひっぱられて部屋の奥へ連れられ、ソファに座らされたキョーコは尚に顰めっ面を向けた。
その眉間の皺が尚の胸の中を柔らかにする。
不機嫌そうに自分を見るキョーコが可笑しくて仕方がないのだ。
自分に復讐すると宣言した時のキョーコのまま何も変わっていないように見えて、自分でもよく理解できない感情が心が満ちていくのを感じていた。
目の前に立ったまま、静かに見つめるだけで何も話し出さない尚を見上げて、キョーコは苛立った声をあげた。
「何よ?!さっさと用件言ったらどう?言っとくけど私はあんたのどんな脅迫にも屈しないわよ?!」
「…おまえ、この間様子がおかしかったろ。ずっと、気になってたから」
「………………」
はっ?
目を点にしているキョーコが可笑しくて、尚は堪えきれずに、ぶはっとふきだした。
「っ、おまっ、顔っ、変…」
会話が噛みあっていないうえに、いきなり顔が変だと腹をかかえて笑われて憤慨しないはずがない。
いきりたって立ち上がったキョーコに、尚は笑いすぎて涙の滲んだ目尻を拭いながら口元に安堵を浮かべて言った。
「元気そうで安心した…」
またしても思いもかけない言葉を尚の口から聞かされて、キョーコは悪寒にぞわああっと身を震わせた。
まさか、この男…それで心配して呼び出したなんてことないでしょうね…いいえ!こいつのことだからなんかとんでもないこと、企んでるに違いないんだから…!
「へええ…あんたが私の心配?それで?何を企んでるのかしらないけど無駄よ。言ったでしょう、私はもう、あんたと対決する気はない。前みたいに地の底まで貶めようともボロキレのごとく完膚なきまでに叩きのめそうとも思ってやしないんだから」
「だから…それが変だっていうんだよ。お前らしくねー…どうしたってんだよ?」
「はっ!私らしくないって?あんたこそどうしたって言うのよ?さっきから…まるで私に叩きのめしてもらいたいみたいな口ぶりじゃない」
「俺に太刀打ち出来ないからって諦めたわけじゃないだろ?無理してんじゃねーよ、キョーコ」
「無理なんてしてないわ!確かにずっと…アンタを前にすると自分でも制御できないくらい、醜い感情が湧き上がって仕方がなかった。でも、今はそんなの感じない…」
―――本当に、不思議なくらい。
今もこの男のことは不愉快だと思う。
メールのときも、腹が立って仕方なかった。
けれど、以前感じていたような恨みや憎しみとは違って、怒りの理由はとてもシンプルなことだった。
腹が立ったのは…悪い噂なんてたてられたくなかったから。
敦賀さんの事を悪く言われるのは、我慢できなかったから。
ただ、それだけだ。
そうして自分の感情の中心に誰が居るのか気が付いてしまったのだ。誰かを中心に心を動かすことなんて、もう二度とないと思っていたのに。
―――だけど、こんな気持ちになった事は初めてで…
相手を想う心に不安が入り混じる、愛しくて、でも切なくて、どうしていいか分からなくなるようなこの感情をいったいどう言ったらいいんだろう…
思いに耽っていたキョーコは、いつの間にか自分の至近距離に近づいていた尚にぎょっとした。
「な、何?」
尚は逡巡した後、腕を伸ばしてキョーコの前髪に触れた。
わずかに怯んで身を縮めたキョーコから、馴染みのある彼女の香りが、昔と変わらずに鼻をくすぐる。
「…なんのつもりよ?」
じろりとこちらへ目をむけるキョーコ。
いまや自分への好意なんて一欠けらも無さそうな、可愛げも色気もない女。
そんな相手に、心が不安定に揺らぐのは以前の自分では有り得ないことだった。
―――わからない。
俺はこいつを呼んでどうしたかったんだ?
「俺は…ただ…」
―――ただ?
ただ、なんだっていうんだ…
尚は、自分でも何を言えばいいかわからず、途方に暮れながら力なくキョーコを見た。
「ただ、おまえに、逢いたかっただけなのかもしれない」
口をついた言葉に、衝撃が、体を巡る。
…なに…言ってんだよ…俺は…?
理解不能とばかりに怪訝そうな顔で自分を見ているキョーコに、ひどくもどかしさを感じながら、尚は自らの気持ちを確認するかのように反芻する。
どうして美森にキスできなかったのか。
あの瞬間、キスをねだる姿にキョーコが重なったというだけで。
それがキョーコじゃないというだけで。
そして、ねだる相手が、俺ではないという事に気が付いて。
羞恥に顔を赤らめてキスをねだるキョーコを思い浮かべて、思わず身を捩って悶えたくなった。
何よりも、それが、ひどく許せなかったんだ…―――
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